わが家の食卓

22/08/09

私は榎本義男と範子の長男として昭和41年に川口市で生まれました。昭和38年に創業した榎本塗装は両親の頑張りで今のセラフ榎本になりました。父は塗装職人兼社長で母は経理及び営業及び職人さんの現場への送迎と忙しくしていました。祖父の清次郎と祖母のシゲも全面的に協力していて家族が一丸となり榎本塗装を切盛りしていました。

 

私の住まいは2階建てで2階に祖父母の部屋と私達の部屋がありました。1階が生活の拠点でキッチンとリビングがあり、ここで皆で食事をしていました。また、母が事務をする部屋と、職人さんの控室と材料置場がありました。会社と自宅の電話が同じだったため、夕方に友人から電話がかかってきても母が元気よく「はい榎本塗装です」と全てでるものですから榎本の家は塗装屋さんということを皆が認識していきました。恥ずかしいだとか嫌だとかは思ったことはありませんでした。「はい榎本塗装です」と電話にでていた母は今も元気でございます。

 

 

小学校から帰宅しそのまま近所の友人と遊びに行き、夕方に自宅に帰ると直に職人さんが帰ってきて、符丁が飛び交い突然賑やかになります。私はそこで符丁を学びました。塗装職人さんは子供にはとても良い方々ばかりでいつも声をかけてもらい可愛がってもらっていました。「修」「修」と久しく言われるものですから私もその気になっていました。そのような大勢の方々がいつもいる環境で中学生まで生活をしていました。

昭和40年代から50年代のわが家の食卓は活気がみなぎっていました。青森県や秋田県や岩手県の中学を卒業して塗装工として榎本塗装に入社してきた方々と食事を共にしていました。なぜ方々と?現在、皆さんは56歳の私より上の60歳すぎの方々ばかりだからです。豪快に丼ぶり飯を食べる凛々しい先輩達を見て、いつしか自分も丼ぶりでと思い、小学校6年生で丼ぶり飯を食べるようになりました。私は丼ぶりでご飯を食べながら大好物のウインナーやベーコンをおかずに味噌汁を2杯飲みほします。一斉に「いただきます」をし、早くそして沢山食べるのが日常でした。

本来の食事は「感謝の気持ちを持ち、味わってゆっくり食べる」が文化的な食事であることは間違いありません。しかしながら育ちが育ちのため小学生の私にはそのことは無縁でございました。小学生の時にはいつも給食を食べるスピードが1番で給食のおかわりは常連でした。今思うと親族以外の塗装職人の方々が毎日食卓にいるという、かけがえのない経験をしたと思います。

 

中学3年生のときに父親から「来年は修と同級生が会社に入社するぞ」と言われましたが、自分は受験し高校に進学するつもりでしたので、あまり意識はしませんでした。

高校1年生の秋に今の埼玉県川口市芝中田2-34-16に自社ビルが完成しそこの2階に居住することとなりました。

高校時代に時々ですが、榎本塗装のアルバイトで現場作業の補助としてケレンや清掃を行ってきました。その時に、中学を卒業し2年経過した現場で働く同級生2人と同じ現場に入ることがありました。彼らは目つきや身のこなしが輝きすぎて眩しく見えました。私はアルバイトで、彼らはこの世界で生きようと親元を離れて上京してきた。この意識の違いで内面からあふれ出る気持ちからそう見えていたのだと思います。中学卒を受入れてきた父の榎本義男と母の範子は立派だと思います。良いことばかりではなかったからです。

 

父の榎本義男は塗装職人でしたが、私は塗装職人の道を選ばなかったため現場での塗装作業をすることはできません。父は私を塗装工事ができる職人に育てるのではなく、施工管理ができる道を歩むようにしてくれました。その経験が私の考え方の基礎になっています。施工管理を経験し技術営業を経験し今にいたっています。

 

今のセラフ榎本には塗装職人さんはいません。総勢80人、総務、営業、設計、安全品質、建設と組織化され、現場監督が40人以上の売上高45億円の大規模修繕工事の専業会社です。

 

現場で協力会社の塗装職人さんと会うと、それらしく果敢に符丁で話しかけます。走らないでシカツに上げてくれよ!(作業を急がず綺麗に仕上げてくれよ!)そうすると笑顔で答えてくれます。そんな会話ができる現場が好きです。

 

令和4年8月9日

株式会社セラフ榎本

代表取締役 榎本修