マンション大規模修繕工事 昭和100年

25/08/09

 

 

マンションの管理組合の皆様には、平素からご厚情をいただき厚くお礼申し上げます。

お陰様で今期7月の決算期で売上高が59億円になり前年度比で増益でございました。これも弊社にご発注いただいた、管理組合の皆様のお陰でございます。心より感謝申し上げます。マンション大規模修繕工事の専業会社といたしまして、今後もマンション管理組合の皆様のご期待に応えられるよう全力で頑張ります。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

8月になり、いよいよ夏本番となりました。管理組合の皆様にはお身体をご自愛くださいますようお願い申し上げます。

弊社におきましては8月10日より17日まで夏季休業とさせていただきます。現場を施工させていただいております、マンションの居住者様にはご理解いただきますようお願い申し上げます。この10日間の間に、何かご不便やアクシデント等がございましたら、大規模修繕工事の現場エントランスに設置中のホワイトボードに記載しております、現場代理人の携帯電話や弊社HP内のLINE、お客様問合せホームにて承ります。また、居住者説明会資料に記載のコールセンターでも承ります。10日間の夏季休業ではありますが、可能な限り迅速にご対応いたしますのでよろしくお願いいたします。

 

さて、7月の決算がおわり弊社の1年間に区切りがつきました。この1年間は弊社におきまして売上高が創業以来過去最高を計上させていただきました。マンション管理組合の皆様にご発注いただき仕事をさせていただいたことが、この成果となりました。ありがとうございます。心から感謝申し上げます。

新卒の新入社員6名(大卒4名、短大卒1名、高卒1名)が入社し社員も100名となりました。社員の給与や私の給与は大規模修繕工事を施工させていただいて入金をいただいたお金からなっています。施工をさせていただいていることに感謝いたします。

 

次に仙台市内に営業所を設置して人員を配備したことがあげられます。いよいよ東北地方でのマンション大規模修繕工事のスタート元年となりました。自身が現場管理をしている時代にも東北地方の施工はプラントメーカー下請けや、ネクスコ東日本から発注していただいた橋梁の塗装工事で施工をさせていただきました。東北地方は大宮駅より新幹線で向かうため交通の便が良く、現場は施工管理の担当者はいますが、私自身で7月中旬に品質と安全のチェックに行ってきました。仙台市の職人さんとも話してきました。仙台市のマンション大規模修繕工事のスタートとして、まずは仙台市で実績を構築し、宮城県内に範囲を伸ばし、福島県や岩手県や山形県や秋田県や青森県のマンション大規模修繕工事を受注させていただき施工をさせていただけるよう頑張ります。

 

営業所は、東京都新宿区、神奈川県横浜市、栃木県宇都宮市、群馬県前橋市にございます。関東地方の施工体制は充実をしております。マンションの大規模修繕工事の施工実績は圧倒的に埼玉県、東京都、神奈川県、栃木県、群馬県、茨城県と言った関東中心にございます。マンションの大規模修繕工事は弊社の基幹事業でございます。今後も本社がございます埼玉県を基盤に業務を進めてまいります。マンション大規模修繕工事の施工は居住者様を第一に考え、居住者様を充分に配慮した施工をいたすと共に、安全、品質、工程を円滑に進めてまいります。

 

ドローンAIに関しても、この1年間で軌道に乗せることができました。建物診断書のAI化でございます。これはドローンで撮影した写真をAIが判断するものです。クラックや欠損、エフロエッセンスなどを瞬時に判断して正確に問題個所を抽出いたします。磁器タイルの浮きに関しての判別に苦戦をしておりましたが、本年にめどがつき安堵しております。

 

もう一つは雨漏り探査ロボットでございます。雨漏り探査ロボットはプロトタイプが昨年の12月に完成しました。しかし改善を余儀なくされ改善に改善を重ねて完成を目指しています。それと同時にこの雨漏り探査ロボットにロボットアームが装着できないか考え、ロボットアームを取り付けるべく改良を重ねています。アームを装着させ乾燥と防水をロボットアームで行います。基本的な動きの構造は考えておりますが、それをどう設置させ動かすのがこれからの課題です。雨漏り探査ロボットは雨漏りの原因になっている箇所を見つけるだけであり、雨漏りの原因になっている箇所の補修は人間がブランコで降り、補修を行います。ロボットアームが装着されていたら、人の作業が不要になり、人が墜落する危険が0になることで有効的に活用できると考えております。

8月1日から新しい期になりましたが、新しい期で開発にめどをつけたいと思います。

 

幼いころにセラフ榎本の前進であります榎本塗装店には多くの職人さんがいました。職人さんが現場から帰り着替えて、椅子に座って酒を飲んでから自宅に帰る、そんな環境で育った私は人による工事は当たり前のことだと思っています。人が現場を修繕するのは今も昔も変わりません。ただ時代の流れでしょうか、コロナウイルスの蔓延からDX化が急速に進み社会のあり方が大きく変わってきました。その波のうねりの中に私たちはいます。時代に即応した組織と体質を作るのが私の役目であると思います。未来は現場のロボット化は避けては通れない道であると承知しております。

 

本年は昭和100年であります。昭和元年に生まれた方は100歳であります。人生100年時代と言われますが、100歳とは長生きでご立派だと思います。心からお祝い申し上げたいと存じます。

 

昭和は1926年から1989年で62年でありました。歴代の元号の中で最も長く続きました。私がこの文章を記載するのに手にしたのが、中央公論社の歴史と人物「昭和100年」でございます。挫折、混乱、希望、繁栄―日本が元気だったあの頃と表紙に記載されています。第一章元年~20年で戦争の時代、第二章は20年~35年で復興の時代、第三章は36年~54年で成長の時代、第四章は55年から64年で絶いただの時代となっています。自分の年齢と合わせてみますと、昭和41年生まれの私は成長の時代に0歳~10歳で、絶いただの時代に11歳~23歳となります。私にとりまして昭和はまさに学生時代でありました。

昭和生まれの先輩方には申し訳ございませんが、1966年の私が生まれた年代からの昭和をここに書かせていただきます。ご容赦いただきますようお願いいたします。

 

私が生まれた1966年は、いざなぎ景気と言われ日本は経済大国の道を歩んでいたとのこと。大量生産・大消費の時代が進み生活は豊かになって行きました。人々は新三種の神器と言われる、いわゆるカラーテレビやマイカー、クーラーを買うようになりました。車はトヨタカローラ、日産サニー、スバル1000でした。この3種は1966年に発売されたものと記載されていました。1986年の20歳の頃は街にはサニーやカローラが沢山走っていましたが、サニーは今は廃版となり存在しませんし、カローラはプリウスやアクアと言ったハイブリット車に人気を奪われ今は細々とシリーズがあるのみであります。しかしながら私と同じ年齢のカローラは来年には発売60周年になるのかと、自分の還暦と照らし合わせております。個人的にはレトロな記念カローラが発売されたら楽しそうだなと思います。

 

人口が1966年に1億人を突破したのもこの年でした。少子高齢化ではく昭和40年代の子供が多く更に人口が増えている時代でありました。

私が通った川口市立芝南小学校時代は1クラス40名以上で4クラスあり、お隣の芝小学校の4クラスありました。友達が沢山できた小学校時代でした。1.2年生は野島先生、3年生は永野先生、4年生は河田先生、5.6年生は榊先生で良い先生に恵まれた6年間であったと思います。1.2年生の野島先生の時に左で書いていた字を右で書くように指導をしてもらいました。そのため今でも文字と箸のみが右で、スポーツや日頃の生活は左が中心です。

 

川口市の小学校は5年時に千葉県の海沿いの臨海学校の大貫に行きます。6年生になると修学旅行で栃木県の日光に行きます。かつて川口市は鋳物の街と言われていました。明治時代より鋳物機械産業が増加し、昭和30年代頃から川口市の鋳物機械産業は絶頂期を迎えることになりました。

 

私が1歳である昭和42年に、四日市ぜんそくの患者が訴訟を起こすとありました。高度経済成長の負の遺産の公害の問題であります。京浜工業地帯を有する川崎市や鋳物機械産業の集積地の川口市は公害が大きな問題になっていました。昭和37年に年に公開された吉永小百合さん主演のキューポラのある街の通り川口市は鋳物の街でありました。DVDでキューポラのある街映画を見ましたが、川口市の昭和の生活が良く描かれている作品だなと感心いたしました。この4年後に自身が生まれたのだと思うと感慨ひとしおです。

 

私の住む芝地区は京浜東北線沿線の川口駅から2つ目の駅である蕨駅が最寄りでございます。小学生の時は、夏になると光化学スモック注意報が繁盛にでていましたし、下水道も普及がまだあまりしてないため、生活用雑排水が流れていた河川は臭く、ヘドロも多くとても生き物が住める川ではありませんでした。そんな川のため、川にゴミも投げ捨てられていてマナーが悪い方々もおりました。駅にも自転車がありとあらゆる場所に駐輪していて駅前は自転車があふれていました。平成になり下水道の整備が推進され見沼用水の水や芝川の水を堅川や緑川の上流から流すようになり、弊社の近くを流れる堅川や緑川は浄化され、鯉や亀やサギやカニ等を見ることができます。ゴミなども投げ捨てられていません。ここまで浄化できたのも地域の皆様と行政の方々のお陰でございます。1967年は公害や河川汚濁がひどい状況でしたが、その後に公害防止を考慮に入れた「工業等制限法」いわゆる工場を川口市や川崎市や四日市市から追い出すための法律が制定されました。追い出し三法の一つで他には工業再配置促進法と工場立地法がございました。この法律が厳しいため、川口市の鋳物や機械産業は郊外に移転をしていきました。

 

今や光化学スモック注意報は聞くことがなくなりましたが、工場の数は激減しキューポラのある街の面影はなく、工場が移転した跡地にはマンションが建設され、いつしかキューポラのある街でなく、マンションの街に変貌を遂げて行きました。川口市の主要駅である川口駅は東京駅に京浜東北線の各駅停車で30分という好立地であるため、東京のベッドタウンとして成長をしてきました。埼玉県内のマンションの戸数は478,870戸となり東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県に続く第5位となっています。4位の兵庫県との差は10,000戸前後であるため、東京圏の経済発展と共にいつしか兵庫県を追い抜くようになると推測します。埼玉県内の各市の昼夜間人口の統計を見ても東京のベッドタウンであると推測することができます。

 

川口市立芝中学校時代は1クラス40名以上で8クラスありました。近隣の小谷場中や芝東中や芝西中ができる前は、芝地区の小学生が芝中学校に通学したのですから、その数の多さは想像すると凄まじい数であったかと思います。私の家から芝中学校まで徒歩40分かかりました、芝中学校は山の上にあり最後に急な坂を上って行き、その坂の上には竹刀を持った風紀の先生が数人いた時代でした。今では考えられない光景が普通でした。週休1日制で男子は全員ボウス頭で、学ランであり、帆布製肩かけかばんと言われる、かばんで通学していました。校庭は広く、木造の校舎もありました。桜の木が300本植えてあり今も母校の横を桜が開花すると車でさっと通ることがあります。勉強では、中学になり英語を学び、「これは面白い」と思いました。体育と美術と音楽と給食の時間が好きで、放課後牛乳部屋で残った牛乳を飲むのを何よりも楽しみにしていた中学生でありました。

 

部活は盛んで、様々なスポーツがありましたが、小学生時代に芝キューポラーズと言う野球チームで三振王と異名があるほどのセンスでしたので、野球は選択せずバスケットボール部に入部しました。ここからバスケットボールの魅力にとりつかれて行きました。バスケットボールは見るのもプレーするのも楽しいものでありあります。現在は見るだけですが平成になり30歳くらいまで社会人としてクラブチームで体を動かすことをしていました。今でもNBA観戦が好きでロサンゼルスレイカースやニューヨークニックスやボストンセルティックス等の多くのチームの試合をTV観戦するのが好きです。中学時代にテレビでNCAA全米大学選手権を見て刺激を受けていました。中学時代は本気でNKKや住金や松下電工と行った実業団バスケットチームで活躍したいと思っていました。

 

高校は東京都内の男子校に通いましたが、高校に行くと芝中学時代よりも、更に多く1クラス60名近く生徒が在籍し、11クラスもありました。前の席が教壇まで数センチの距離で、一番後ろは壁に頭がくっつくくらいギュウギュウでした。昨年に川口市立の岸川中学校にて臨時講師として教壇に立ちましたが、30人学級のゆとりに感服いたしました。Z世代はゆとりが違います。次のα世代(0歳から12歳)はもっとゆとりかと思います。今と比べると私が学生時代を過ごしした昭和は格段に子供の数が多いのがわかります。

 

昭和57年4月に東京の高校に入学し電車通学が始まりました。

JRが国鉄の時代で、蕨駅にはエレベーターやエスカレータはなく、駅の改札には切符切りの駅員さんがいて、カチカチカチと鋏を鳴らしながら定期の有効期日をチェックしていました。ネットの情報ですが、当時に切符切りの駅員さんは各駅の鋏の形を覚えているとか。プロだなと思います。ホームには吸い殻入れがありましたし、線路の下には煙草が捨ててあり今では考えられない状況でした。蕨駅から赤羽駅には京浜東北線で行きました。蕨駅からギュウギュウなのに西川口駅で乗って来て、川口駅から乗ってくるため赤羽駅まで混雑で身動き一つできませんでした。赤羽駅でどっと降りるので流れるように降りて行きます。赤羽駅から池袋駅に行く赤羽線に乗りました。赤羽駅と池袋駅を往復するだけの車両は黄色いペイントで塗られていました。この赤羽線がいつもギュウギュウで京浜東北線同様に身動きもできないほどで、池袋駅につくまで息も苦しい状況でした。池袋駅から今度は新宿駅に行くために山手線に乗ります。この山手線も同じくギュウギュウでした。やっと空くのが総武線で、ここで息つきました。今思うと体力があった高校生の私がそう思ったのですから、サラリーマンの方々もこのラッシュはさぞかし大変だったと思います。昭和40年代~50年代は少子高齢化でなく、時差式通勤もなくテレワークもなく、東京都に一極集中時代がラッシュアワーを生み出していたと思います。今は見ることはありませんが当時は駅に伝言板がありました。外出すると連絡が取りづらいこともあり、このような伝言板が活躍したのだと思います。

 

昭和50年代は固定電話が家に1台でありました。平成から令和にかけて携帯電話が普及し公衆電話が激減していきました。その結果として携帯電話が1人1台の時代になっております。また同じようにパソコンの普及もすさまじく、今やパソコンが扱えないとサラリーマンでは通用しない時代であります。

令和は昭和と比べると飛躍的に連絡がとりやすい環境であると思います。学生時代に自宅に帰ると母親が「修、〇〇さんから電話があったよ」と教えてくれました。電話番号が自宅と同じでしたので、母親が「もしもし榎本塗装です。」と言って電話にでていました。心無い同級生から時々「榎本の家に電話するとお母さんが榎本塗装ってでるんだよな」と冷やかされたことがありました。今思うと創業した会社に誇りを持ち堂々としていた両親は素晴らしいと思います。生きて行くために全力を尽くし、仕事を休まず、1に会社、2に会社と言う考え方でありました。私はその子供として両親を誇りに感じます。

昭和50年に母親が元気な声で「榎本塗装です」と電話対応していた時と、令和7年での会社の規模や体制はまるで違います。一変したのではなく徐々に変わっていきました。これが歴史と伝統のある会社の歩み方かなと感じます。昭和の良いところを残しながら平成~令和と3つの元号を歩んでいます。

 

会社を創業し幾多の困難を乗り越えてくれた創業者である父の榎本義男と母の榎本範子と、当時働いてくれた社員の皆様に深く感謝いたします。先人の努力があったからこそ今のセラフ榎本があると思います。私は両親が創業した会社を守り、そして意志を継いで継続して行くことが使命であると感じております。いよいよこれから新しい期が始まりました。これからも社員と共に歩み、明るく元気に日々を過ごしたいと考えています。

 

令和7年8月9日

株式会社セラフ榎本

代表取締役 榎本修